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「小さな助け合いの物語賞」受賞作品
第11回 ハートウォーミング賞作品・入選者
電車の中で
丸山 由香(神奈川県)
初めて気づいたのは「チェア、チェア」という小さな声であった。そっと見るとラブラドールレトリバーの盲導犬と女性が目に入った。
電車の中で盲導犬を見ることは、実際のところあまりない。犬好きの私がそっと見ていると、その犬は空席を見つけて誘導し、女性が座ると自分は座席の下で伏せ、降車駅までじっとしていた。降車駅が近づくと降り口付近に立ち、扉が開くとほかの乗客が降りた後にすっと降り、ホームの階段も人混みをよけて、ゆっくりと降りていった。
犬の従順さ、賢さに感心し、こっそりその姿を見ることが日課となった。上野駅から浦和駅まで、その犬と女性は同じ時刻の同じ車両に乗ってきた。車内はがらがらという時間帯でもなく、女性と犬は「チェア、チェア」と席を探し、見つからなければ浦和駅まで立っているようだった。私は自分の近くに彼女が来たときは席を譲ることにした。最初は席の場所をどう伝えたらよいのかわからなかったが、そっと触れ「こちら側です」と言えばよいとわかった。女性が笑顔で「ありがとうございます」と席に着くと私は少し離れて様子を見た。何度も席を譲ったが「席空いていますよ」以外の会話をすることもなかった。
ある日、いつものように上野駅で見ていると、女性が白杖をついて乗車してきた。あの犬がいない。病気だろうか。そして翌日も翌々日も女性は一人だった。今までよりもおぼつかない足取りに見える。そうであろう、いつも共にいたあの犬がいないのだから。
そして二週間ほどが経ち、私は意を決し「以前は盲導犬とご一緒でしたよね」と声をかけた。「犬はちょっと体調を崩してしまって、引退させたのです。私といるとどうしても無理をしてしまうので」とのことだった。
私は女性と犬の姿を今一度思い出した。パートナーの絆がどれほど強かったことか。女性の決断に胸が熱くなり、それ以上どう声をかけたらよいのかわからなかった。
翌日以降も女性は電車に乗ってきて、近くに来れば席を譲った。盲導犬との日々の長さは知る由もないが、白杖での乗車はやはり少しおぼつかなく見える。見ていると席を譲る人は多く、私の方に来る前に席が見つかることも多かった。浦和駅では駅員さんがいつもそっと階段の安全を確認していた。さりげない優しさはそこここにあった。
改めて考える。私は最初に犬の姿を見かけなかったら、彼女に努めて席を譲っていただろうか。周りの優しさに気づくことができただろうか。盲導犬は、今まで見えていなかった、いや見えていたけれど意識していなかった世界と行動に導いてくれたのではなかったか。
願わくば、あの賢い犬がどこかで今もこれからも幸せでありますように、そう祈って通勤電車に揺られている。